街の花屋、井戸の底にタブーを叫ぶ

「王様の耳はロバの耳」このページは井戸代わりです。
街中どころか世界に繋がっていて、王様も弁解に難儀するでしょうが知ったことではありません。
ただ、リンクを深くて目立たないところに置くことで、多少の配慮はしたつもりです。

常日頃、喉の奥に滞らせていることを洗いざらい吐露します。
主に花き業界に関わる事柄ですが、他の諸々も秩序無く取り混ぜて書き綴っていくつもりです
暗黙の了解の元に業者が口を噤んできた、所謂、部外秘も含まれます。

目次

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ある日の荻窪園芸市場

今を去るン十年前、需要閑期の荻窪園芸市場。

競売開始の10分ほど前、品物の下見から戻ってきた売参人達でほぼ満席となった雛壇の下に、東大和のKさんが立ち、皆を見上げて、こういった。
「今、KM園が戻ってくるけど、みんな、売り上げの話だけはするなよ」「うちは、売れてるよ、と言われて腹立つから」

不愉快な話

どの業界でも業者にとって「売上高」は最大の関心事だが、しかし、、

花屋は、何で他店の売り上げを、それも具体的な金額で知りたがるのだろう。
「参考にしたいから」という言い訳は容認しがたい。せめて、平年との比較とか期間毎の売り上げ推移程度で遠慮すべきではなかろうか。

筆者が、この質問に不快を感じるのは、当店の売り上げが躊躇いを伴わずに人様に知らしめるほど多くはないからだが、それは当店のせいではない。

我々の扱い品目である花は、必需品でもなく、ましてや、大量消費財でもない。客単価も決して大きくはない。技術やアートの要素も中途半端で限定的だ。
売上高が寂しいのは花屋の宿命みたいなものだと思う。

他業種と比べてみれば、その差は悲しいほどに明らかだ。

昔、池*西*の地下に、ホ**セ**というショッピングモールがあった。(今もあると思う)
多業種の数十店が軒を連ねる中に、花*という生花店があった。(今もあると思う)
月商数千万円が平均のどん尻に、月商500万の花*が位置していた。
ホ**セ**の家賃は売り上げ天引きで、売上高に応じて天引き率が設定されていたが、かけ離れて売上高の低い店にそうそう高い天引き歩合を課すわけにもいかない。
店子の経営が立ちゆかなくなるからだ。
納金の少ない花*さんは、いつも大家の突き上げを食っていた。

我々同業者には、イヤな現実だ。

ちなみに、このショッピングモール内で婦人服を商っていた友人の月商は2000万。
互いの暇を取れる時間が合ったときは一緒に食事をしたが、彼がいつも気にしていたのは、駐車場に駐めた車中の商品だ。「一千万分ある」と言っていた。

昔というのは、正確には1975年頃だ。今とは貨幣価値が違う。念のため。

不愉快な話#2

これから書くことは、花屋には勿論、部外者にとっても別の意味で不愉快だと思う。

筆者が長年その中で過ごしてきた食品業界の話だ。殆どは直に体験してきたことで人づてに聞いた話ではない。
信じる、信じない、は読む方の自由だ。父は売り上げの話題になると決まって言っていた。「そんな話を人前でするな。法螺を吹いていると思われるのがオチだ。」
しかし、四半世紀も前のことならば、この禁を破っても良いだろう。

不愉快な話#3

この程度の売り上げの店は掃いて捨てるほどあった。

このページを読んでいる花屋さんや園芸屋さんがもしいたら、筆者の前で売り上げの話はどうかしないで頂きたい。気が滅入る。

ハッキリ書こう。こと売り上げに関する限り「花屋」や「園芸店」はママゴト並なのだ。

ただし、「売り上げ高」丸ごとが成果ではない。前述のA横と*地に二店を営んでいた親戚は日に百万以上を売り上げたが粗利は五万以下だった。
それでも、時代(1960年台)を考えると小さくはない額なのだが、忙しい割には利に乏しいこのような営業形態は筆者なら願い下げだ。

儲けは二の次に、人と金をせわしく動かし他人には大きな商売をしているように見せて、また、自らも満足する輩が、いつの時代の、どの世界にも、いるものだ。

信じられない話

築Zは、場内、場外とも、同業者が何百軒も軒を連ねている。それぞれに専門はあるが、隣り合った店同士でさえ、かなりの扱い品目がダブる。

当然競争は激しく厳しい。

一店が値下げすると、早いときにはその日の内に、その値段が、その品目の標準価格になる。
客はプロなので、価格にはドラスティックに反応する。元の値のままにしておけば、見事なまでに売れなくなる。

小細工は全く通用しない。客に評価されるのは、正味のメリットだけだ。
「生き馬の目を抜く世界」と言っても、まあ反論はこないだろう。

しかし、呆れるほど抜けたところもあった。

当時(東京オリンピックの頃だから、1964年以降の数年間)不二家がハイカップという瓶入りのシロップを出していた。かき氷にかけるあれである。
値引きの形態は年によって違ったが、夏の需要期になると、決まって特売があった。

ある年、10ケース以上買うと、一割引のキャンペーンで、当店は30ケースを仕入れた。
ところが、33ケースが納入され、納品書を見ると単価はそのままで30ケース分の請求金額になっていた。
つまり、一割引ではなく、10ケースにつき1ケースおまけになっていたのだ。

店にやってきた営業担当にクレームを付けた。
「これでは一割引になっていない」。営業は鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしている。
仕方なく、小学校の先生よろしく、算数の授業をすることになったが、営業の顔は鳩豆のままだ。
そのうち、ソロバンを貸してくれというので渡すと、パチパチ玉をはじきながらブツブツいっている。
鳩豆は顔から消えたが、換わりに「私にはあなたが何を言っているのか解らない」と書いてある。

埒があかないので、会社に電話させたが、本人が解っていないのだから、電話先の事務員に事の次第が伝わるわけはない。
中学生の筆者が電話を替わり、算数の授業をむしかえすと、驚いたことに、営業担当と同じ対応なのだ。
あまつさえ「そんなことを言ってきた店は他にはない」と、こちらをなじる始末だ。

さすがに、後日送られてきた訂正伝票には、十一分の一引きではなく、正しく十分の一引きの金額が記載されていたが。

不二家といえば、当時から一流の食品メーカーだ。
あれは、本当に20世紀の日本の商取引の現場での出来事だったのだろうか? 今でも信じられない。

信じられない話#2

「確信犯だ」どこかから声が聞こえてきそうだ。

仰せの通りだ。
少なくとも、企画立案者、実施を決め命じた者、現場を取り仕切った者、は承知の上だっただろう。
改めて書くまでもない。

声を上げなかった同業者達には呆れる。気付かなかったのか、小事だと放置したのかは定かではないが、いずれにしても信じられない。

「十分の一」と「十一分の一」の差は、食料品にとって、見逃すことも放置することも許されない。
粗利が薄いからだ。
例えば、インスタントラーメンは、30袋入った段ボール箱三つを帯で一括りにして、それが一コオリと呼ばれる最小販売単位だった。
その、マージンたるや、驚くなかれ、一コオリで45円だ。一袋当たり、ナント、50銭。
流石にインスタントラーメンは薄利の最右翼だったが、他の品目も、おしなべてマージンは薄い。
平均的な店舗規模の当店で扱い品目は1000点内外あったが、粗利が二割を越すものは数えるほどだった。

この薄利の中、「十分の一」引く「十一分の一」の損は大きく効いてくるのだ。
区の長者番付に載る個人商店が何軒もある一方で、それらの店に勝る売り上げを上げながら潰れる店もまた後を絶たなかった。

信じられない話#3

そういえば、誰かが言っていたな。

一、場所、二、品、三、値段

二の品は、品質。三の値段は文字通り。
では、一の場所とは何だろう?

店舗所在地の立地、つまり、消費者の購買力、実勢、、ニュアンスはこんなところだろうか?

仲間の花屋数人と連れだって、評判の同業者の店を見学に行ったことが何度かある。

対象の店は例外なく人通りの多い商店街にあった。
その人通りを目の当たりにして、同伴の仲間の中に次のような事を言う者が必ず現れる。
「俺だったら、この場所なら日にン十万売る。」

能天気で羨ましい。
ここまで世間をおちょくれたら、それだけで人生楽しいだろう。
自らの目論見と現実とのギャップに直面して挫折を味わうこともない。
このような甘い読みでは、本当に良い場所を見つけて出店することなど一生できないからだ。

悪い場所と良い場所、、両極端を対比すれば解りやすい。

この単純明解な違いに気付かずして、まともな評価ができようか。

昔のアM横などは事情が多少異なる。通行人が買い物を目的としているからだ。それでも、数多の店がひしめく中で、通行量の1パーセントを客にできれば上出来だろう。
また、築Zの場合は、全てが買い物を済まさずには帰れない人たちだ。しかし、同品目を扱かう店が延々と軒を連ねている。
アM横も築Zも稀な例で、殆どの商店街は通勤通学路等と重なった、通り過ぎるだけの人が多数を占める道だ。

信じられない話#4

立地の評価も、基準となる価値の何たるかを弁(わきま)えずしては下せない。

では、その価値とは?

やはり人通りだ。   ただし、「通行人、即、客」ではない。

店頭の品物を通行人は見る。買う気のない人も、いつかは客になる可能性がある。日々、店頭で広告、宣伝をしているようなものだ。
人通りの多い場所にある店は宣伝効果に於いてより有利。   これに尽きる。

多数への周知が売れ行きに繋がる。売れれば、その分、鮮度の良い品揃えができる。信用に結びつく。

そして、この好循環の生む効果が以下に述べることで、これが多分、好立地の一番の、そして、唯一のアドバンテージだ

「残らず売り切れる」

花屋で言えば、花筒にバラ一本になっても、誰かが買ってくれる。
鮮度落ちのリスクを冒して、店中を常に品物で一杯にしておく必要はない。
ガラガラになっても最後の一本まで売れてしまう。
商品が残り少なくなっても、古くはないことを客が認識しているからだ。

信じられない話#5

店頭陳列による宣伝効果は、各種のメディアを通じて行う普通の意味での広告宣伝より優れている面がある。
それは、店の前を通る人が本人の意思には関わりなく見てしまうことだ。
日常生活の流れの中で「目に映って」しまうのだ。
広告看板やアドバルーン、ネオンサイイン、乗り物の中吊り等も、この類だが、広告宣伝そのものだけのためにコストを掛けなくてはならない。

新聞や雑誌は開かなければ見られない。ラジオやテレビもスイッチを入れなければ聞いたり見たりできない。
インターネットに至っては、もっと積極的な意思を伴う行動が必要だ。
コンピューターを入れ、ブラウザを立ち上げ、WEBにアクセスする。そこで始めて見える。
つまり、見に行かなければ見られない。

宣伝広告は、売り手が買い手に商品の購入を訴える手段だ。買い手が、わざわざ、それを見に行かなくてはならないのでは、話が逆ではないか。
広告情報選択の自由は、たまたま生じた余録で、ありがたがるには及ばない。

「受け手を煩わせることなく供せられて、しかも、押しつけない。」それが広告宣伝の求められる姿ではなかろうか。

店頭陳列による宣伝効果は、この理想に近い。

信じられない話#6

「信じられない話#3」の冒頭に書いた、「俺だったら、この場所なら、ン十万売る」花屋さん達は、こんな事も言う。

「普段良いものを売っているから、物日には沢山のお客さんが来てくれる」 え〜!え〜?   
「平素はよその店で買っている人も物日はうちにくる」 勘弁してくれ! これ以上口を開けたままにしていたら、顎が外れる。

あのねー、物日に客数が増えるのは、お宅だけじゃないんだよ。

お宅で物日に増えた分のお客さんが、もし、普段は他の花屋で買っているんだとしたら、他の花屋で増えた分のお客さんは普段どこの花屋で買ってるのさ?
あなたの理屈からすると、物日に客数が減る花屋があるはずだけど、日本中の花屋に通常の何倍ものお客さんが押し寄せるんだよ。
それらのお客さんは、普段はどこの花屋で買ってるんだ? まさか、外国じゃあるまい?

「よその花屋も物日に客数が増えるとは知らなかった」なんて、言わないよね。

物日の間近になると、市場の入荷量が増えてくる。生産者が需要を見込んで増やした品物を、物日に合わせて出してくるからだ。
その増えた品物、値崩れしたりするかい? ましてや、競り残ったりするかい?
どこの花屋も、その時期にはしっかり市場に来て、強相場の中を普段の何倍もの品物を仕入れていくじゃないか。

物日のさなかに偵察はできないだろうから、他店の賑わい様は解らなくても、市場で席を並べて仕入れている姿は見ているよね。
鬼瓦の様な顔をして必死に買っているのはあなただけじゃないだろ。

そもそも、「物日」って何だ?
「花を使うイベントがある日」だろ。つまり、普段より花が余計消費されるということさ。

平素は花を飾るなんてことを全くしない人も花を買うのさ。その分、客数が増えるんだ。
逆から言えば、物日だけに来るお客さんは、普段は、花屋を殆ど利用しないんだ。他の花屋で買ってるわけじゃない。

「物日はお宅に買いに来る」なんてお客さんの言葉を真に受けるほどお目出度くはないよね。
気分良くさせておけば、何かにつけて都合がよいから、お世辞を言ってるだけだってことは、解っているよね。
こういったお客さん、うちにも大勢来るよ。

書きながらバカバカしくなってくる。

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